インベーダーゲームと孫正義
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インベーダーゲームと自動翻訳機が拓いた道:孫正義とソフトバンク創世記

序章:巨大企業ソフトバンク、その知られざる原点

今や日本を代表し、世界のテクノロジー業界に絶大な影響力を持つソフトバンクグループ。その総帥である孫正義氏の名を知らない者はいないでしょう。数十兆円規模の「ビジョン・ファンド」を率い、世界中のユニコーン企業に投資し、情報革命の未来を創り出す彼の姿は、まさに現代の風雲児そのものです。

しかし、この巨大なコングロマリットが、一人の若者の野心と、そして当時日本中を熱狂させたビデオゲームからその歴史の重要な一歩を踏み出したことは、あまりにも知られていません。多くの人がソフトバンクを携帯電話キャリアやプロ野球球団の親会社として認識していますが、その礎には、孫正義という稀代の起業家が学生時代に成し遂げた、二つの「賭け」とも言える大勝負がありました。

一つは、自らが発明した「ポケット自動翻訳機」。そしてもう一つが、ブームが過ぎ去った「インベーダーゲーム機」です。これら二つの物語は、孫正義の卓越した先見性、常識を打ち破る行動力、そして人との縁を何よりも大切にする人間性の原点を浮き彫りにします。本稿では、若き日の孫正義が如何にして起業の軍資金を手に入れ、その後のソフトバンクの礎を築いたのか、そのドラマチックな創世記を紐解いていきます。


第一章:発明と執念 - 1億円の軍資金を生んだ自動翻訳機

話は1970年代後半、孫正義がアメリカのカリフォルニア大学バークレー校に留学していた時代に遡ります。彼は16歳で高校を中退し渡米、わずか数年で大学に入学するという異例の経歴の持ち主でした。この頃、彼は自らの人生の羅針盤となる壮大な計画を立てています。後に伝説となる**「人生50年計画」**です。

「20代で名乗りを上げ、30代で軍資金を貯め、40代で一世一代の勝負をかけ、50代で事業を完成させ、60代で次の世代に事業を継承する」

この計画の第一歩、「名乗りを上げる」ための武器として彼が選んだのが「発明」でした。彼は自らに「1日5分、何か一つ発明を考える」というルールを課し、来る日も来る日もアイデアを練り続けました。その執念が結実したのが、**世界初の「ポケット自動翻訳機」**のアイデアでした。

当時の翻訳機といえば、大型で高価なものが主流。それを手のひらサイズにし、誰でも手軽に使えるようにすれば、世界中の人々のコミュニケーションを変えることができる。そう確信した孫氏は、すぐに行動を開始します。彼は、音声合成技術の権威であったフォレスト・モーザー教授を口説き落とし、共同でプロトタイプの開発に乗り出しました。

試行錯誤の末に完成したプロトタイプを手に、孫氏は日本へ一時帰国。自らの発明を製品化してくれる企業を探し、名だたる日本の電機メーカーの門を叩きました。しかし、カシオ、キヤノン、ソニーといった大企業の反応は冷たいものでした。「面白いアイデアだが、時期尚早だ」「技術的なハードルが高すぎる」「市場性が見えない」。無名の学生が持ち込んだ突飛なアイデアに、真剣に耳を傾ける企業はどこにもありませんでした。

失意の中、最後に訪れたのが大阪に本社を置くシャープでした。ここで、彼の運命を大きく変える出会いが待っていました。対応したのは、当時、技術本部長を務めていた佐々木忠(ささき ただし)専務です。多くの企業が門前払いした孫氏のアイデアに対し、佐々木氏だけがその革新的な可能性を見抜いたのです。

佐々木氏は、電卓戦争を勝ち抜き、液晶技術を世界レベルに育て上げたシャープの技術のトップであり、常に未来を見据える慧眼の持ち主でした。彼は、孫氏の熱意と、自動翻訳機が秘める無限の可能性に賭けたのです。数度にわたる交渉の末、シャープはこの発明の権利を買い取ることを決定。その契約金は、実に1億円以上にものぼりました。一説には1億7000万円とも言われています。

一学生が、たった一つのアイデアで手にした1億円。これは、彼の「人生50年計画」における「30代で貯める」はずだった軍資金を、20代前半で手に入れてしまったことを意味します。この資金が、後のソフトバンク設立の直接的な元手となりました。

皮肉なことに、後にシャープは経営危機に陥り台湾企業の傘下に入り、一方のソフトバンクは日本を代表する巨大企業へと成長を遂げました。しかし、孫氏は今でも佐々木氏への感謝を忘れていません。「あの時、佐々木さんが自分のアイデアを信じてくれなければ、今のソフトバンクは存在しなかった」。この出会いは、単なる商談を超え、若き起業家の未来を切り拓いた、まさに「礎」となったのです。


第二章:逆転の発想 - インベーダーゲームが教えたビジネスの真髄

自動翻訳機で得た軍資金は、孫正義にとって大きな自信と次なる事業への足掛かりとなりました。しかし、彼の起業家としての才覚をさらに証明する出来事が、ほぼ同時期に起こっていました。それが、日本中を席巻した**「スペースインベーダー」**との出会いです。

1978年に株式会社タイトーが発表したアーケードゲーム「スペースインベーダー」は、単なるヒット作ではありませんでした。それは一つの社会現象でした。喫茶店のテーブルは次々とインベーダーゲームの筐体に入れ替わり、ゲームセンターには若者たちが殺到。あまりの人気に、ゲームに必要な100円硬貨が市中から不足し、日本銀行が緊急増産に踏み切ったという逸話まで残っています。当時、ゲーム筐体は1台100万円以上という高値で取引され、まさに「金のなる木」でした。

しかし、熱狂的なブームは永遠には続きません。1年ほどでブームは急速に沈静化。あれほど日本中に溢れていたインベーダーゲーム機は、突如として行き場を失い、中古市場で二束三文で取引されるようになります。

この状況を、孫正義はアメリカの地から冷静に観察していました。そして、誰もが「終わったコンテンツ」と見なしたインベーダーゲーム機に、巨大なビジネスチャンスを見出したのです。彼の着眼点はシンプルかつ大胆でした。

「日本ではブームが去ったが、アメリカではまだ火がついていない。このタイムラグを利用できないか?」

彼は、日本で価値が暴落したインベーダーゲームの筐体を安値で買い叩き、それをアメリカに輸出して販売するという計画を立てます。これは、後にソフトバンクが幾度となく成功させるM&A戦略の原型ともいえる、「価値が正当に評価されていないものを見つけ出し、新たな価値を与える」というビジネスモデルそのものでした。

彼はすぐに行動に移ります。日本にいる知人を通じて、ゲームセンターの倉庫で埃をかぶっていたインベーダーゲーム機を、1台数万円という破格の値段で次々と買い集めました。その数、実に350台以上。そして、それらをコンテナに詰め込み、太平洋を渡ってアメリカへと送り込んだのです。

アメリカでの販売もまた、一筋縄ではいきませんでした。しかし、彼は持ち前の交渉力と行動力でレストランやバー、ゲームセンターに売り込みをかけ、次々と販路を開拓していきます。結果、このインベーダーゲームの転売ビジネスは大成功を収め、彼はここでも1億円以上の莫大な利益を手にしました。

自動翻訳機の発明が「0から1を生み出す」創造力の証明だとすれば、インベーダーゲームの成功は「既存のものの価値を再定義し、1を100にする」商才の証明でした。この二つの成功体験は、彼に「情報産業」の巨大な可能性を確信させ、日本での本格的な起業へと突き動かす原動力となったのです。


終章:ソフトバンク誕生、そして未来へ

二つの大成功で得た約2億円の資金を手に、孫正義は日本へ帰国。1981年9月、故郷である福岡の地に、ついに自らの会社を設立します。その名は**「日本ソフトバンク」**。

社名に込めたのは、「ソフトウェアの銀行(バンク)」として、情報化社会におけるインフラを担うのだという壮大な志でした。創業の日、彼は事務所にアルバイトとして集まった二人の社員を前に、みかん箱の上に乗って熱弁を振るいました。

「我が社は5年で売上100億円、10年で500億円を達成し、いずれは豆腐を“一丁、二丁”と数えるように、ソフトウェアを“一丁、二丁”と数える会社になる」

あまりに壮大なビジョンに、二人のアルバイトはすぐに辞めてしまった、という有名なエピソードが残っています。しかし、孫氏の言葉は単なる大風呂敷ではありませんでした。彼は創業当初のPCソフトウェア卸売事業を皮切りに、出版事業、インターネット事業、そして通信事業へと、時代の変化を的確に捉えながら、驚異的なスピードで事業を拡大していきます。

振り返れば、その全ての原点は、学生時代のあの二つの成功体験に集約されます。

  • 未来を見通す「先見性」: 誰も見向きもしなかった自動翻訳機の可能性を信じ抜いたこと。
  • 常識を覆す「発想力」: ブームが去ったゲーム機に新たな市場を見出したこと。
  • アイデアを実現する「実行力」: 教授を口説き、企業に売り込み、海を越えてビジネスを成功させたこと。
  • 恩義を忘れない「人間性」: 窮地を救ってくれた佐々木専務への感謝を今も持ち続けていること。

一つのインベーダーゲームが、日本の、いや世界のテクノロジー史を動かす巨大企業の礎の一つとなったという事実は、歴史の面白さと不思議さを教えてくれます。孫正義とソフトバンクの物語は、その成功が単なる幸運ではなく、若き日の揺るぎない志と、チャンスを逃さない大胆な行動力、そして人との縁によって築き上げられたものであることを、私たちに力強く語りかけているのです。

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