
フェルナンド・ソルの「月光」。この曲を初めて弾いたのは、20代後半のことでした。 ベートーヴェンのピアノソナタ第14番「月光」の主題と印象が似ていることから、その名が付けられたと言われています。元々は、ソルの「20の練習曲」に含まれる第5番の楽曲です。
セーハなどのテクニックは要求されるものの、技術的な難易度はそれほど高くありません。しかし、初めて触れてから50年が経った今でも、この曲を完全に弾きこなせたとは言えないのです。それは、一音一音がまるで凝縮されたエキスのように濃密で、曲想も単なる練習曲(エチュード)の域をはるかに越えているからでしょう。
アンドレス・セゴビアによるゆったりとした荘厳な演奏がある一方で、芳志戸幹雄氏のように、やや速いテンポでピアニスティックに解釈する演奏もあり、表現は実に多彩です。
この曲の音楽的な深みを本当に理解するには、相応の人生経験が必要だと感じます。例えば、小学生が弾く「月光」は、技術的な練習曲の域を出ないのかもしれません。私自身、この曲の真の魅力に心奪われたのは50歳を過ぎてからでした。人生の艱難辛苦を味わい、挫折を経験し、まるでベートーヴェンが抱えたかのような苦悩を経てこそ、この曲にふさわしい解釈が生まれるのではないでしょうか。
「月光」はリクエストされる機会も多いのですが、決して甘いラブソングではありません。そのため、弾くたびにその背景にある解釈は異なり、常に新たな発見があります。これぞまさしく、「ザ・クラシック」と呼ぶにふさわしい一曲です。
いつか孫と二重奏をすることを夢見て、その日に備えて練習を欠かさないように心がけていますが、果たしてその夢は叶うでしょうか。
(2018年3月録音 「ソルの月光」によせて)
「月光」という名の由来:後世に与えられた愛称
ご指摘の通り、フェルナンド・ソルの練習曲に「月光」という題名を付けたのは、作曲者自身ではありません。これは後に出版社や演奏家たちが付けた愛称です。
では、なぜこの愛称が定着したのでしょうか。それには、いくつかの説得力のある理由があります。
1. 音楽的な印象の酷似:「静寂の夜に差し込む光」
最も大きな理由は、やはりベートーヴェンのピアノソナタ第14番「月光」の第1楽章との著しい印象の近さです。
- ゆったりとした3連符の響き: 両曲とも、静寂の中でゆったりと流れるような3連符のアルペジオ(分散和音)が曲の主体をなしています。この響きが、聴く者に静かな夜の情景や、水面に映る月の光のような幻想的なイメージを強く喚起させます。
- 短調の切ないメロディ: ソルの「月光」はロ短調、ベートーヴェンの「月光」は嬰ハ短調と、どちらも物悲しく内省的な響きを持つ短調で書かれています。アルペジオの上で奏でられる哀愁を帯びたメロディラインが、単なる美しい情景描写に留まらない、深い情感や苦悩といった人間的な感情を表現しています。
- 構成の類似: 序奏のように静かに始まり、徐々に感情的な高まりを見せていく曲の構成も、両者には共通点が見られます。
これらの音楽的特徴が非常に似ているため、ギターを学ぶ人々や聴衆が、ソルのこの練習曲を弾いたり聴いたりした際に、自然とベートーヴェンの「月光」を連想するのは、ごく自然なことでした。誰かが言い出した「ギター版の月光」という呼び名が、多くの人の共感を呼び、広く定着していったと考えられます。
2. ベートーヴェンへの敬意とマーケティング戦略
ソルの生きた時代(1778年〜1839年)は、ベートーヴェン(1770年〜1827年)が「楽聖」としてヨーロッパ中の音楽家に絶大な影響を与えていた時代と重なります。ソル自身もベートーヴェンを深く尊敬しており、その影響は彼の作品の随所に見られます。
出版社や後世の演奏家たちが、この練習曲に「月光」という愛称を付けた背景には、
- 偉大なベートーヴェンへの敬意(オマージュ)
- 「あの有名な『月光』に似た曲」として、より多くの人に親しんでもらおうという商業的な意図(マーケティング)
の両方があったと推測されます。特に19世紀から20世紀にかけて、クラシック音楽が市民層に広まっていく中で、親しみやすい愛称は曲の普及に大きく貢献しました。
まとめ:単なる偶然ではない、魂の共鳴
ソルの練習曲が「月光」と呼ばれるようになったのは、単なる偶然の産物ではありません。それは、時代を代表する二人の作曲家が、期せずして「静寂の夜の光と影、そして内に秘めた苦悩」という共通のテーマに対し、非常によく似た音楽的アプローチで表現した結果と言えるでしょう。
ベートーヴェンの革新的なピアノ表現に触発されたソルが、ギターという楽器の可能性を最大限に引き出し、独自の語法で「月光」の世界を描き出した。そして、その音楽に込められた魂の響きを後世の人々が敏感に感じ取り、「月光」という最もふさわしい名前を与えたのです。
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