ホームレスは神様ショートショート

ホームレスは神様ショートショート

 


ホームレスは神様と呼ばれた日

第一部:奇跡の邂逅

夕暮れがコンクリートの街を茜色に染め、公園に植えられた木々の影が長く伸びる頃、吹き抜ける風は肌寒さを帯び始めていた。季節の狭間で、都会の喧騒から取り残されたような静寂がそこにはあった。老いた男は、いつものように公園のゴミ箱を漁っていた。誰というわけでもなく「ホームレス」と呼ばれるその存在に、行き交う人々は一瞥もくれない。古びて擦り切れたベンチの傍らに置かれた樫の杖、そして、肩のあたりが破れ、もはや体を温める役目を果たしているかも怪しいコート。その姿は、何十年もの孤独と疲労を凝縮した彫刻のようだった。

しかし、その日、彼が錆びついたトングでゴミ箱から拾い上げたものは、いつもと違った。食べ残しのパンでも、換金できそうな空き缶でもない。破れ、表紙すら失われた一冊の古びた聖書だった。

その瞬間、まるで映画のワンシーンのように、公園を包んでいたすべての音が消えた。車の走行音も、遠くで遊ぶ子供の声も、風の音さえも。時間が止まったかのような静寂の中、男は聖書をそっと開いた。すると、信じられない光景が彼の目の前で繰り広げられた。黄ばみ、ページの端が欠けていたはずの紙が、みるみるうちに純白の輝きを取り戻し、かすれていたインクは鮮やかな黒へと蘇っていく。まるで数秒の間に、数世紀の時を遡るかのように、聖書は新品同様の輝きを放ち始めた。

老人は、その奇跡を前にしても、驚きの声をあげるでもなく、ただ大きく目を見開いた。そして、まるで失われた我が子を抱きしめるかのように、その聖書を胸に強く抱いた。彼の表情は、深い皺の刻まれた能面のように変わらない。まるで、この奇跡が起こることを知っていたかのように、あるいは、彼にとって奇跡こそが日常であるかのように。

彼は静かに立ち上がると、杖を頼りにゆっくりと歩き始めた。どこへ向かうという明確な当てもない足取りは、やがて公園の片隅にある、西日を一身に浴びるベンチへとたどり着いた。そこに腰を下ろした老人は、ゆっくりと体を前にかがめ、疲労と、そしてわずかな安らぎが浮かんだ顔で目を閉じた。すぐに、彼の体は穏やかな眠りの世界へと沈んでいった。

夕闇が公園を完全に支配し、気の早い街灯が頼りない光を投げかけ始めた頃。一匹の真っ黒な猫が、音もなく老人の足元に現れた。その猫もまた、老人と同じく歳を重ねているようで、片方の犬歯が欠けていたが、その瞳は深い知性を湛えているように見えた。猫は妙になつっこく、老人の膝にその身をすり寄せると、安心しきったように丸くなった。

老人の手は、汚れ、ひび割れた軍手に覆われていたが、人差し指の先だけが破れた穴から覗いていた。何もないはずのその手を、猫が親しみを込めてぺろりと一舐めした。その刹那、再び奇跡が起こる。老人の手のひらから、まるで陽炎のように、猫の好物である干し魚が数匹、姿を現したのだ。老人は微かに目を開けると、その干し魚をそっとベンチの片隅に置いた。猫が夢中でそれに食らいつくのを見届けると、彼は満足げに頷き、再び立ち上がって杖をつき、闇の中へと消えていった。

翌日も、老人は公園にいた。いつものお気に入りのベンチで、昨日と同じように静かな昼寝を貪っている。その日の公園には、別の訪問者がいた。若者だ。彼の傍らには、使い込まれたギターケースが置かれている。彼は人生のすべてを、そのケースの中の楽器に賭けていた。

若者はベンチに腰を下ろし、ケースから古びたクラシックギターを取り出した。長年弾き込まれ、ボディには無数の傷がついているが、彼の愛情が注がれていることは一目でわかった。足台をセットし、彼は静かに息を吸い込む。簡単なスケールからアルペジオへ。指慣らしのフレーズが公園の空気に溶けていく。眠っているはずの老人の耳が、かすかにぴくりと動いた。

若者は、数週間後に迫ったコンクールの練習に没頭していた。曲目はフランシスコ・タレガの「カプリチオ・アラベ」。アラビア風奇想曲。彼にとって、これが最後の挑戦だった。前回のコンクールで最終選考にも残れず、審査員から「君の演奏には魂がない」と酷評された。このコンクールで結果が出せなければ、音楽の道を諦め、父の言う通りに安定した仕事に就く。そう決めていた。

だが、焦れば焦るほど、指はもつれる。特に冒頭、繊細なハーモニクスに続く流れるようなスケールが、どうしても上手く弾けない。リズムが走り、無駄な力が入って音は硬くなる。緊張が彼の指を、心を、がんじがらめにしていた。「なぜだ…どうして…」若者は何度も同じ箇所を繰り返し、そのたびに深いため息をついた。

その時だった。ゆっくりと、しかし確かな足取りで、老人が腰を上げるのが視界の端に入った。杖をつきながら、まっすぐに若者の方へ歩いてくる。しかし、若者は演奏に集中するあまり、その存在にすぐには気づかなかった。ふと顔を上げると、目の前に老人が立っていて、彼は思わず肩を揺らした。

「あ、こんにちは、おじいさん」若者は驚きを隠し、努めて愛想よく声をかけた。老人は何も言わず、ただ深く刻まれた皺をさらに深くして、微笑んで頷くだけだった。

「ギター、お好きですか?」若者が尋ねると、老人はまた笑みをたたえながら頷く。「どうです?僕のギター。下手でしょう?」自嘲気味に若者が言うと、老人は静かに首を横に振った。その否定は、「下手ではない」という意味なのか、それとも「そんなことはどうでもいい」という意味なのか、若者には判断がつかなかった。

少し戸惑いながらも、若者はその老人の纏う不思議な穏やかさに引かれ、「お疲れでしょう。よかったら、僕の隣に座ってください」とベンチの隣を勧めた。老人はゆっくりと腰を下ろし、しばらくの沈黙の後、ついにしゃがれた声で口を開いた。

「わしも…昔は、ギターを弾いたもんじゃ」

若者は目を見開いた。「本当ですか?おじいさんもギターを?よかったら…何か弾いてみませんか?」

老人は少しためらい、「いやいや、もう指も動かん。昔のようには弾けんよ」と弱々しく笑った。しかし、若者の心には、好奇心と、そして万に一つの期待が芽生えていた。「何でもいいんです。どんな曲でも。お願いします」

内心では、この老人がまともに弾けるはずはないと思っていた。だが、何かにすがりたかったのかもしれない。老人は観念したように頷くと、若者からギターを恭しく受け取った。

その所作は、若者を驚かせた。彼はまず、軍手をゆっくりと外し、コートの袖でネックを丁寧に拭いた。そして、足台を使ってゆっくりと姿勢を整える。その一連の動きには、楽器に対する深い敬意と愛情が満ちていた。しわだらけで、関節の太くなった指がペグに触れ、調律を始めた。その手つきは驚くほど滑らかで、淀みがなかった。

そして、老人が弾き始めたのは、若者が悪戦苦闘していた、あの「カプリチオ・アラベ」だった。

最初のハーモニクスの音が、空気を震わせた。それは単なる音ではなかった。まるで教会の鐘のように清らかで、天から降り注ぐ光の粒子のようにきらびやかな響き。公園のすべてが、その音に耳を澄ませたかのようだった。そして、流れるようなスケール。力強く、しかしどこまでも優雅で、アラビアの砂漠を渡る風のように自由だった。

若者は息をのんだ。何よりも驚いたのは、その音色だった。自分の楽器から、どうしてこんな音が出るのか。まるで、今まで眠っていた楽器の魂が、この老人の指によって呼び覚まされたかのようだった。深く、温かく、そしてどこか懐かしい。すべての音が意味を持ち、物語を紡いでいた。

曲はアクロバティックな中間部へと展開する。老人の指は、まるで鍵盤の上を舞う蝶のように、指板の上を自在に駆け巡った。ラスゲアードの情熱的な響き、トレモロの繊細な揺らぎ、そして最後のポルタメントの切ない余韻まで、すべてが完璧だった。それはもはや、人間の演奏とは思えなかった。音楽そのものが、老人の姿を借りてそこに顕現したかのようだった。

演奏が終わり、最後の音が静寂に溶けていくと、若者はしばらく呆然としていたが、やがて我に返り、声を震わせた。「おじいさん…あなたはいったい…何者なんですか?」

老人は静かに目を閉じ、ギターを優しく撫でた。「誰にでもできるんじゃよ。おまえさんはまだ若い。これからもっと上手くなる」

「教えてください!また、教えてくれますか?」若者は必死に食い下がった。

老人は穏やかな笑みを浮かべて頷いた。「楽器の調律が、少し気になってな。直しておいたよ。いいかい、調律は音楽なんじゃ。自分の魂の調律を探すのじゃよ」

それが、老人の最後の言葉だった。「送っていきます!」若者が慌てて自分の荷物をまとめ、振り返った時には、もう老人の姿はどこにもなかった。ベンチの上には、先ほどまで彼が座っていた温もりすら残っていない。ただ、あの黒猫が若者の足元に座り、すべてを知っているかのように静かに彼を見上げていた。

若者はその後も毎日公園に通ったが、老人に再び会うことはなかった。しかし、あの日の演奏と言葉は、彼の心に深く、深く刻み込まれた。彼は自分のギターを手に取り、もう一度「カプリチオ・アラベ」を弾き始めた。すると、どうだろう。今までとは全く違う音が、自分の指から生まれてくるではないか。硬さは消え、音が歌い始めた。老人が言っていた「魂の調律」の意味が、少しだけ分かった気がした。

数か月後、若者はコンクールで優勝した。審査員は彼の演奏を「技術を超えた、魂の響きがある」と絶賛した。表彰台の上で万雷の拍手を浴びながら、彼の心には、あの公園の老人の穏やかな笑顔が浮かんでいた。「おじいさん、僕は…やりましたよ」彼は心の中で、深く、深く感謝を伝えた。

第二部:魂の宣教

コンクールでの優勝は、若者の人生を劇的に変えた。彼の名は音楽界に瞬く間に広まり、その演奏は世界中の権威あるコンサートホールで称賛を浴びた。特に彼の「カプリチオ・アラベ」は、"神が宿る演奏"とまで評され、聴衆の心を掴んで離さなかった。しかし、成功の階段を駆け上がる一方で、彼の心には言いようのない空虚感が広がり始めていた。

満員の聴衆、鳴り止まない拍手、批評家からの賛辞。そのすべてが、次第に彼にとって意味のない記号のように感じられた。「自分の演奏は、ただ技術を披露するだけの自己満足になっていないか?」ある晩、豪華なホテルのスイートルームで、彼は窓の外に広がるきらびやかな夜景を見つめながら、自問した。拍手喝采を浴びるたびに、心が冷えていくのを感じた。大切な何かを、成功と引き換えに失いかけている。

その時、彼の脳裏に鮮やかに蘇ったのは、あの公園の光景だった。老人のしわくちゃの手、奇跡のような音色、そしてあの言葉。「自分の魂の調律を探すのじゃよ」。彼はハッとした。自分が探すべきだったのは、完璧な演奏技術や名声ではなかった。音楽を通して、何かを伝え、人々と魂で繋がること。それこそが、老人が教えてくれた「魂の調律」の本当の意味だったのだ。

彼は決断した。大きな舞台から一度降りることを。彼は、音楽を本当に必要としている人々の元へ、自ら足を運ぶ「ギターの宣教師」になることを決意した。彼の新たな目標は、音楽を通して人々に希望と喜びを届け、そして、あの老人から受け取った魂のバトンを、次の世代へと繋いでいくことだった。

彼の最初の旅は、アフリカの紛争で疲弊した小さな村から始まった。そこでは、人々が家族や友人を失い、子供たちは音楽に触れる機会すら奪われていた。泥と埃にまみれた村に、彼のクラシックギターの音色はあまりにも不釣り合いに思えた。しかし、彼がギターケースを開け、子供たちの前でメロディを奏で始めると、奇跡が起きた。

最初は遠巻きに見ていた子供たちの目が、好奇心に輝き始めた。彼は言葉の代わりに、ギターを子供たちに手渡し、簡単な和音を教えた。指先から生まれる音の響きに、子供たちの顔に笑顔が広がっていく。そして、彼が「カプリチオ・アラベ」を弾き始めると、村中の人々が集まってきた。戦争で傷つき、固く閉ざされていた彼らの心が、その優しくも力強い音色にゆっくりと解きほぐされていくようだった。涙を流す老婆、静かに聴き入る若者、そして、音楽に合わせて楽しそうに体を揺らす子供たち。その光景を前に、若者はニューヨークやロンドンのどんなコンサートホールよりも大きな感動と、自分の音楽の存在意義を実感していた。彼は教えるだけでなく、彼らから学んでいた。音楽の原点、その純粋な力を。

彼の旅は、アジアの貧しい山村へ、中南米のスラム街へ、そして中東の難民キャンプへと続いた。どの地でも、彼はギターを通して人々と心を通わせた。彼の活動は口コミで広がり、多くの支援者が現れた。彼が訪れた場所では、ギターが希望のシンボルとなり、彼の支援のもと、小さな音楽学校が次々と立ち上げられていった。彼はかつての老人が自分にしてくれたように、才能の原石を見つけては、技術だけでなく「魂の調律」の大切さを説き続けた。

数年後、彼は南米アンデスの山中にある小さな村で、新しく完成した音楽学校の設立式典に招かれた。式典が終わると、村の子供たちが、彼のために覚えたてのギターで小さなコンサートを開いてくれた。その拙いながらも心からの演奏を聴きながら、彼は自分が歩んできた道のりを噛みしめていた。すべては、あの公園での出会いから始まったのだ。

コンサートの最後に、一人の少年がはにかみながら前に進み出た。そして、彼の耳に飛び込んできたのは、あの「カプリチオ・アラベ」だった。技術はまだ未熟だったが、その一音一音には、音楽を奏でる純粋な喜びと、未来への希望が満ち溢れていた。その音色は、どこか懐かしく、彼を公園でのあの日に連れ戻した。

コンサートが終わった後、彼は夕暮れの村のはずれを一人で歩いていた。その時、ふと足元に温かい感触があった。見下ろすと、そこにいたのは、片方の犬歯が欠けた、あの黒猫だった。何千キロも離れたこの地に、なぜ。しかし、彼は驚かなかった。まるで旧友に再会したかのように膝をかがめ、その背中を優しく撫でた。「おじいさん、僕は、あなたが教えてくれた道を歩いていますよ」。彼は心の中で、天に向かって語りかけた。

その夜、彼は旅の間ずっと大切に持ち歩いていた、あの古びた聖書を手に取った。老人が教えてくれたようにページを開くと、聖書は今も新品同様の輝きを放ち、彼の手にしっくりと馴染んだ。そのページには、彼が世界中で出会った人々の笑顔が、幻のように浮かび上がって見えた。

第三部:セゴビアの遺言

ギターの宣教師として世界を巡り、生ける伝説となりつつあった若者の心に、常に一つの問いがあった。「あの老人は、いったい誰だったのか」。その問いは、彼の音楽的探求の核心となり、彼を新たな旅へと導いた。彼の探求は、ついにクラシックギターの聖地、スペインへと向かう。彼の心は、見えざる力に引かれるように、グラナダを指し示していた。

グラナダで、彼はギターの神様と称された巨匠、アンドレス・セゴビアの記念コンサートに招聘された。セゴビアはとうにこの世を去っていたが、彼の音楽は今もなお、世界中のギタリストにとっての北極星であり続けている。若者は、このコンサートを自身の探求の集大成とすべく、全身全霊で準備を始めた。

コンサート前日、彼はふと思い立ち、セゴビアが愛したというアルハンブラ宮殿の庭園を訪れた。糸杉の並木道を歩き、噴水の音に耳を澄ませる。ベンチに腰を下ろし、目を閉じると、風の音や鳥のさえずりが、まるで一つの音楽のように聞こえてきた。もしかしたら、ここでなら、あの老人に再会できるかもしれない。そんな予感が彼の胸をよぎった。

ふと、杖が地面を打つ、乾いた音が聞こえた。若者が目を開けると、そこには、夢にまで見たあの老人が立っていた。姿は以前と少しも変わらない。破れたコート、樫の杖、そしてすべてを見透かすような穏やかな瞳。

「おじいさん…!」若者は喜びと驚きで声が上ずった。「また、お会いできたんですね。僕は…あなたが教えてくれた音楽のおかげで、今、ここまで来ることができました。明日、ここでアンドレス・セゴビアの記念コンサートを開きます。あなたは…彼のような偉大なギタリストだったのでしょうか?」

老人は静かに微笑み、ゆっくりと若者の隣に腰を下ろした。彼のしわだらけの手が、ギターを握るかのように、かすかに動く。しばらくの沈黙の後、老人は、まるで風の囁きのような低い声で話し始めた。

「わしは…かつて、アンドレス・セゴビアと呼ばれていた者じゃ。だが、肉体はとうに滅び、今はただ、魂としてこの世を漂っておる」

若者は雷に打たれたような衝撃を受け、言葉を失った。「まさか…あなたが、セゴビア…?では、あなたの魂が、あの姿を借りて…?」

老人は静かに頷き、続けた。「そうじゃ。わしは生前、世界中を旅し、多くの人々に音楽を届けたつもりでおった。しかし、肉体を失い、魂だけになった時、わしは自分の音楽が未完成であったことに気づいた。音楽とは、技術の披露ではない。魂そのものの響きを伝えるものじゃ。わしは、その真髄を完全には掴めぬまま、この世を去ってしまった。だから、わしの魂はこの世に留まり、本当に音楽を理解できる魂を探して、放浪しておったのじゃ」

「では、あの日、公園であなたが教えてくれたあの演奏は…」若者は震える声で尋ねた。

「そうじゃ。わしの全てじゃった。だが、わしが伝えたかったのは技術ではない。なぜわしが、富も名声も持たぬ、ただの老人の姿で現れたか、わかるかの?」

若者が首を横に振ると、セゴビアの魂は言った。「最も純粋な魂は、最も謙虚な場所に宿る。富や名声は、時に魂の耳を曇らせてしまうからのう。君は、コンクールに落ち、全てを失いかけていた。だからこそ、君の魂は、わしの音楽を聴く準備ができておったのじゃ」

セゴビアは続けた。「君が始めた宣教の旅、わしはずっと見ておったよ。君は、わしが生前やり残したことを、成し遂げようとしておる。それこそが、わしの喜びじゃ。もう、わしが教えることは何もない」

「そんな…」若者は涙を浮かべた。「僕は、あなたのおかげでここまで来ました。これからも、あなたの教えを胸に、音楽の力を伝え続けます」

老人は静かに立ち上がり、杖をつきながら歩き出した。「君がこれから歩む道は、光に満ちておる。わしの役目は、これで終わりじゃ。だが忘れるな。魂の調律とは、世界そのものと調和すること。風の音、人の声、心の痛み、そのすべてが音楽なのじゃ

そう言い残すと、老人の姿はゆっくりと薄れ始め、夕暮れの光の中に溶けるように、まるで霧のように消えていった。若者はその場に立ち尽くし、セゴビアの魂がこの世に残してくれた言葉の重みを、全身で感じていた。

翌日のコンサートは、歴史的な名演となった。若者が弾くギターの音色は、もはや彼一人のものではなかった。そこにはセゴビアの魂が宿り、彼が世界中で出会った人々の喜びや悲しみが共鳴し、壮大なシンフォニーを奏でていた。観客は、技術を超えた「魂の調律」に圧倒され、ただ涙した。

演奏が終わり、鳴り止まない拍手の中、若者は舞台の袖で、あの古びた聖書を静かに開いた。そして、客席の遠い片隅に、満足げに微笑む老人の幻影を見た気がした。

彼の旅は、まだ終わらない。今や彼は、ギターという楽器を手にした、神の言葉を伝える真の宣教師となったのだ。彼の足元には、いつの間にかあの黒猫が寄り添い、まるで彼の永遠の旅路を見守るかのように、静かに喉を鳴らしていた。  

鈴木 誓市 著

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クラシックギター